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山口地方裁判所下関支部 昭和45年(ワ)199号 判決 1972年1月18日

原告

田島淑子

ほか二名

被告

林兼産業株式会社

ほか一名

主文

原告らの請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

(原告ら)

被告らは各自、原告田島淑子に対し一、八〇〇万円、同田島信彦に対し

一  一四七万四、八一七円、同田島ミチヲに対し七八三万三、〇三三円及びこれらに対する昭和四五年六月六日から右支払済みに至るまで年五分の割合による各金員をそれぞれ支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

第一項につき仮執行宣言。

(被告ら)

主文同旨。

被告ら敗訴の場合に仮執行免脱宣言。

第二当事者の主張

(請求原因)

一  (事故の概要)

昭和四三年一月一二日午後七時頃、原告ミチヲが同信彦を背負い、同淑子の手を引いて、下関市田中町四番七号先県道上の横断歩道を東から西に向けて横断歩行中、同県道を唐戸方面から新町方面に向け北進中の被告田中雅彦運転の軽四輪貨物自動車(山六ら五〇五八号、以下、被告車両という。)に衝突された為、原告ら三名は路上に転倒し、それぞれ後に述べるような後遺症を残す傷害を受けた。

二  (被告らの帰責事由)

被告田中は被告会社の従業員であり、又、被告車両は被告会社の所有するところであり、本件事故当時被告田中は被告会社の業務遂行の為被告車両を運行中、前方不注視(脇見運転)、歩行者優先無視の過失により本件事故を惹起したものであるから、それぞれ以下に述べる原告ら三名の損害につき賠償の責に任じなければならない。

三  原告ら三名の損害

(原告淑子)

(一)  後遺症

原告淑子は本件交通事故により頭部打撲症等を受けたのであるが、右傷害は昭和四四年八月三一日左の如き内容の後遺症を残し、症状が固定した。

(イ) 頭部外傷後遺症

脳波異常を呈し、所謂てんかんの発作を起す可能性があり、且つ、激しい頭痛があり、又、頭部外傷跡の頭髪に手を触れると激痛がある。

(ロ) 両眼網膜振盪及び眼球打撲、両眼角膜上皮剥離、高度眼精疲労(乱視)

左右の視力は各〇・六に低下し、又、両眼球の表面に波状の凹凸が生じ高度眼精疲労(乱視)を来たしている。起床時、両眼は目やにの為開かないので、毎日眼科医に通院している。

右後遺症は自動車損害賠償保障法施行令別表第六級に該当する。

(二)  後遺症による逸失利益

原告淑子の父方の祖母である原告ミチヲは、大正一四年から今日まで四六年間に亘り割烹、飲食店の経営をして来たが、現在の月額純収入は三一万七、一五三円であるところ、原告淑子も右ミチヲの経営をつぐ予定であつたのであるから、逸失利益の算定にあたつては、右収入額が基準とされるべきである。

前記後遺症は、労働基準法施行規則別表第二身体障害等級表(以下、身体障害等級表という。)第六級に該当し、右労働能力喪失率は、労働基準局通達(昭和三二年七月二日基発五五一号労災保険法二〇条の規定の解釈について)別表労働能力喪失表(以下、労働基準局通達五五一号と略称する。)によれば、六七パーセントである。

原告淑子は昭和三八年一二月一一日生れで本訴提起当時(昭和四五年五月二九日)満六才であり、そのホフマン係数は一七・三八〇である。

従つて、原告淑子の逸失利益は次のとおり四、四三一万七、四三七円となる。

317,153円(月収)×12(月)×17.380(ホフマン係数)×0.67(労働能力喪失率)=44,317,437円

(三)  後遺症に対する慰藉料

原告淑子は現に前記後遺症に苦しんでおり、その為今後共、のびのびと育つべき性格は内向的になる可能性があり、進むべき人生航路は著るしく限定され、女性として生きる喜びである婚姻も諦めなければならない。

以上の事実を総合して考慮すれば、前記後遺症による原告淑子の精神的損害を慰藉するには七〇〇万円をもつて相当とする。

(四)  弁護士費用

原告淑子の法定代理人親権者父田島重美はやむなく本訴を提起したのであるが、原告淑子の訴訟代理人らに対し本件訴訟委任契約の報酬として、山口県弁護士会報酬規定の定める範囲内で一五〇万円を支払う旨約した。

(五)  以上損害額の合計は五、二八一万七、四三七円となるところ、後遺症に対する自動車損害賠償責任保険給付として昭和四五年一月一二日一〇一万円の支払を受けたので、右金額を差引いた五、一八〇万七、四三七円が原告淑子の損害残額となるのであるが、本訴に於て同原告は被告らに対し各自右の内一、八〇〇万円及びこれに対する本件事故後である昭和四五年六月六日から右支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(原告信彦)

(一)  後遺症

原告信彦は本件交通事故により頭部打撲症等を受けたのであるが、昭和四四年七月二四日次の如き内容の後遺症を残し、症状が固定した。

(イ) 鼻出血、慢性副鼻腔炎、嗅覚減退

左上顎洞並びに節骨洞骨折により骨片が肉に喰込む為に週に一度位の割合で出血する。左鼻腔内に血塊が溜まり、左鼻穴のみならず右鼻穴からも鼻出血がある。

(ロ) 慢性中耳炎(左)

前記鼻出血時に耳漏(左)があり、慢性中耳炎(左)を起している。

以上の後遺症は自動車損害賠償保障法施行令別表第九級五号「鼻を欠損し、その機能に著しい障害を残すもの」、一四号「神経系統の機能に障害を残し、服することができる労務が相当な程度に制限されるもの」に該当する。

(二)  後遺症による逸失利益

原告信彦の親権者父田島重美は、下関商業短期大学商学部を卒業して、現在貿易業を営んでおり、父方の祖父田島令三は旧制明治大学法学部を卒業し且つ弁護士資格を取得しており、父方の祖母である原告ミチヲは前述のとおり割烹業等を経営するなど、父並びに祖父母共に社会的経済的に高度の職業に従事しているところ、原告信彦も将来は弁護士若しくは医師にならんとしていたのであるから、原告信彦の将来の月収は旧高専、短大卒男子職員昭和四三年平均月額給与額八万二、五〇〇円(労働省編、昭和四四年版労働白書六六頁「付属統計表第七七表」による)を下廻らないと言わなければならない。

前記後遺症は身体障害等級表第九級五、一四号に該当し、その労働能力喪失率は労働基準局通達五五一号によれば三五パーセントである。

原告信彦は昭和四一年四月一一日生れであるから、本訴提起当時満四才であり、そのホフマン係数は一六・六九五である。

従つて、逸失利益は次のとおり五七八万四、八一七円となる。

82,500円(月収)×12(月)×16.695(ホフマン係数)×0.35(労働能力喪失率)=5,784,817円

(三)  後遺症に対する慰藉料

原告信彦は前記後遺症に日々苦しめられており、その為性格は内向的になりつつある。又、成人してから(手術に耐え得る年令に達してから)は、視神経を損傷し失明する危険のある造鼻手術を受けねばならず、然かも右手術には総額一五〇万円の諸費用が必要である。

又、嗅覚が減退した為に、医師、薬剤師、化学者、技術者、料理関係専門家等への進路が閉ざされてしまつた。

以上の諸事実を総合考慮すれば、原告信彦の精神的損害を慰藉するには五〇〇万円をもつて相当とする。

(四)  弁護士費用

原告信彦の親権者父重美はやむなく本訴を提起したのであるが、原告信彦の訴訟代理人らに対し、本件訴訟委任契約の報酬として、前同様一〇〇万円を支払う旨約した。

(五)  以上損害額の合計は一、一七八万四、八一七円となるところ、後遺症に対する自動車損害賠償責任保険給付として昭和四五年四月二二日三一万円の支払を受けているので、右金額を差引いた一、一四七万四、八一七円及びこれに対する本件事故後である昭和四五年六月六日から右支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を被告ら各自に対し求める。

(原告ミチヲ)

(一)  後遺症

原告ミチヲは本件交通事故により頭部打撲挫創等を受けたのであるが、右傷害は昭和四四年八月二二日次の如き内容の後遺症を残し、その症状は固定した。

(イ) 頑固な頭痛並びに左下肢疼痛

(ロ) 脳波異常

(ハ) 両眼角膜混濁

両眼の視力は右〇・三、左〇・〇五に低下し、殆んど右眼の視力しか用をなさなくなつた。

以上の後遺症は自動車損害賠償保障法施行令別表第九級一号「両眼の視力が〇・六以下になつたもの」に該当する。

(二)  後遺症による逸失利益

原告ミチヲの経歴及び収入は、前記原告淑子関係の(二)で述べたとおりである。

なお、原告ミチヲは、前記後遺症による視力低下等のためふぐの刺身(ふぐの身を紙片程にうすく切り、菊の花弁状に美しく大皿に盛付け、その刺身片を透視して大皿に焼付けてある皿の模様を見ることが出来るよう飾らねば職業的ふぐ刺身料理とは言えない。)をはじめ、一般的に調理に支障を来すことになつた。

前記後遺症は身体障害等級表第九級一号に該当し、その労働能力喪失率は労働基準局通達五五一号によれば三五パーセントである。

原告ミチヲは明治三一年一一月一五日生れであり、本訴提起当時満七一才であつて、そのホフマン係数は四・三六四である。

従つて、逸失利益は次のとおり五八一万三、〇三三円となる。

317,153円(月収)×12(月)×4.364(ホフマン係数)×0.35(労働能力喪失率)=5,813,033円

(三)  後遺症に対する慰藉料

原告ミチヲは前記後遺症により精神的肉体的苦しみを受けているのであるが、特に、約半世紀(四六年間)の永きに亘つて続けて来た刺身を中心とする調理が困難になつたことは、収入低減を来たすのみならず、生甲斐を失う程の大きな精神的苦痛である。

又、片眼の状況では日常生活に於て、テレビジヨン放送を見ることや新聞等の文字を読む喜びを失つた。

以上の事実を総合考慮すれば、原告ミチヲの精神的損害を慰藉するには二〇〇万円をもつて相当とする。

(四)  弁護士費用

原告ミチヲはやむなく本訴を提起したのであるが、本件訴訟代理人らに対し本件訴訟委任契約の報酬として、前同様八〇万円を支払う旨約した。

(五)  以上損害額の合計は八六一万三、〇三三円となるところ、後遺症に対する自動車損害賠償責任保険給付として昭和四四年六月二八日七八万円の支払を受けたので、右金額を差引いた七八三万三、〇三三円及びこれに対する本件事故後である昭和四五年六月六日より右支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を被告ら各自に対し求める。

(答弁並びに抗弁)

請求原因一の点については、原告らの後遺症は争うが、その余の点は認める。

同二、三の点は否認する。但し、原告らが自動車損害賠償責任保険の各給付の支払を受けた事実は認める。

抗弁として、

一  被告らは本件事故の約六ケ月後である昭和四三年七月一日原告らの代理人於保睦(原告らの本件訴訟代理人でもある。)と、本件事故による損害賠償に関し、何等の制限や条件を付することなく、

(一) 被告らは原告らに対し、治療費、休業補償費、慰藉料として八八万円を支払う。

(二) 今後如何なる事情が発生しても、双方とも異議の申立てをしない。

との示談契約を締結し、右示談金は内金一三万円は同日支払い、残額七五万円は同月二日に支払済みである。

二  又、仮に原告らに、右示談契約当時予想できなかつた後遺症等があつたとしても、原告らはその各損害に対し、その自認する如く、後遺症に対する自動車損害賠償責任保険給付として、原告淑子は一〇一万円、同信彦は三一万円、同ミチヲは七八万円をそれぞれ受領しているのであるから、右各損害は既に填補されているものと言うべきである。

(再抗弁等)

一  抗弁一の点については、被告ら主張の(一)、(二)の内容の示談契約を締結し、示談金の支払を受けた事実は認めるが、右示談契約は原告らの後遺症に対する損害を除外した限定的、制限的なものである。なお、示談契約にいう慰藉料というのは、治療に伴なう精神的損害に対する慰藉料を意味するに過ぎず、後遺症に対する慰藉料は含まない。

又、右示談契約は自賠責保険金請求用に印刷された用紙によつてなされたもので、異議放棄条項は所謂例文で、その効力を有しないものと解すべきである。

二  (再抗弁)仮りに、右示談契約に後遺症による損害が含まれるとしても、

(一) 原告らは右示談には後遺症による損害が含まれないものと信じていたのであるから、原告らの意思表示にはその要素に錯誤があつたことになり、民法九五条により無効である。

(二) 本件示談契約は、契約後に生じた著しい事情の変更、即ち原告らの症状の悪化、治療の延引、後遺症の発生があつたので、その効力を失つたものというべきである。

(三) 本件示談契約就中異議放棄条項には、予想外の損害発生によつて当然解除せられるべき旨の黙示の解除条件が附せられているものと解すべきところ、原告らに前述の如き予想外の各後遺症が存することが示談契約後明らかとなつたので、右解除条件の成就によつて、右示談契約就中異議放棄条項は当然解除されたものというべきである。

(四) 又、信義則により諸般の事情を考慮すれば、本件示談契約は、契約後に生じた損害については、その効力は及ばないと解すべきである。

(再抗弁に対する認否)

再抗弁事実は全て否認する。

第三証拠〔略〕

理由

一  原告ら主張の請求原因一(事故の概要)の点については、原告らの後遺症の点を除き、当事者間に争いがない。

二  同二(被告らの帰責事由)の点については争いがあるので、その点につき判断する。

〔証拠略〕を綜合すれば、次の事実が認められる。

昭和四三年一月一二日午後七時頃、原告ミチヲ(明治三一年一一月一五日生)が同信彦(昭和四一年四月一一日生)を背負い、左手で同淑子(昭和三八年一二月一一日生)の手を引いて、本件事故現場である交通整理の行なわれていない交差点に設置された横断歩道を東から西へ横断歩行中、被告会社の従業員である被告田中が、被告会社の商品配達の為、被告会社所有の被告車両を運転して時速約四〇キロメートルの速度で南から北へ向つて右交差点に差掛つたのであるが、右交差点は南北にかけて見透しは良好であつて、且つ、夜間とはいえ街路灯及び被告車両の前照灯の照明により原告らの発見並びにそれに基づく危険回避は容易であつたにも拘らず、唯ボンヤリと前方を注視することなく進行した過失により、横断歩道上の原告らの発見が遅れ、約一〇・六〇メートル手前でようやく原告らに気付き急制動の措置をとるも及ばず、被告車両左前部を原告らに衝突させて原告らを路上に転倒せしめ、原告淑子に頭部及び左大腿部打撲症、両眼々球打撲及び網膜振盪症、両眼角膜上皮剥離、原告信彦に頭部打撲症、両眼網膜振盪症、両眼角膜侵潤、原告ミチヲに頭部打撲挫創、左下肢打撲傷の各傷害を与えた(後遺症の点については後に判断する。)。

三  請求原因三(原告ら三名の損害)の原告らの各後遺症の点について判断する。

(原告淑子)

右原告は前記認定の如く本件交通事故により(1)頭部及び左大腿部打撲症、(2)両眼々球打撲及び網膜振盪症、両眼角膜上皮剥離の各傷害を受けた。

右(1)の傷害は、〔証拠略〕によれば、昭和四三年四月二三日に一応後遺症なく治癒したものと認められる。もつとも、原告の主張する脳波異常(てんかん)の点は、〔証拠略〕によれば、同年四月二五日の脳波検査により脳波異常の存在が判定(てんかんの疑いありと診断)されたのであるが、右脳波異常は左右差のないものであるところからして本件頭部打撲との因果関係は認め難く、他に原告主張の脳波異常が本件事故に帰因すると認めるに足る証拠は存しない。〔証拠略〕によれば、原告淑子は小学校に通学するようになつて屡頭痛を訴えるようになつたことが認められるが、その程度、原因等を明にする証拠は存しない。

又、頭部外傷跡の頭髪に触れると激痛を生ずるとの主張であるが、右主張に添う〔証拠略〕は遽わかに措信し難く、他に右事実を認めるに足る証拠は存しない。

次に(2)の傷害であるが、〔証拠略〕によれば、昭和四三年三月一日現在に於て両眼々球打撲及び網膜振盪症は治癒されており、角膜上皮剥離の治療中であつたことが認められるが、〔証拠略〕によれば、角膜上皮剥離は通常容易に(約一ケ月位で)再生治癒するものと認められるので、特別の事情なく治療を継続すれば原告淑子の場合も、間もなく治癒するに至つたものと推認するのが相当なのであるが、右証人の証言によれば、原告淑子は昭和四三年五月一四日頃流行性結膜炎に罹患したことが認められるので、その為に再生治癒が若干遅れたと考えられる。

目やにの為目があかぬとの事実は、〔証拠略〕により認められるが、〔証拠略〕によれば、それも昭和四三年八月二二日の国立下関病院眼科での診療打切りの時点ではほぼ軽快治癒していたことが認められ、それ以後も原告主張の如き症状を呈しその為眼科医院に通院加療したとの事実を認めるに足る証拠は存しない。

視力が〇・六に低下したとの事実は、〔証拠略〕によれば、昭和四五年二月一五日当時の原告淑子の推定視力は〇・六であるが、これは同年令の幼児の標準視力を〇・一下廻るに過ぎないものと認められる。

高度眼精疲労の点は、その主張に添う〔証拠略〕によれば、同人は国立下関病院勤務の麻酔科、外科を専門とする医師であるから、同人がなした高度眼精疲労ありとの眼科的診断は、〔証拠略〕に照らしても遽わかに措信し難く(同人の勤務する国立下関病院の眼科医長である小辻一男作成の〔証拠略〕にも右高度眼精疲労に触れた部分がない。)、他に右事実を認めるに足る証拠は存しない。

(原告信彦)

原告ら主張の鼻出血等の点については、〔証拠略〕を綜合すれば、本件事故による頭部打撲の為原告信彦は左上顎洞・節骨洞を骨折し鼻出血を生じたが、昭和四三年二月二一日から同月二九日にかけて出血量は減少したので注射投薬等の特別の治療をなすまでもなく一応治癒したものとして診療が終了し、その後昭和四四年四月一四日頃右骨折が開放性骨折であつた為細菌に感染し炎症を生じ、鼻出血並びに鼻汁が出るようになつたが消炎剤の投与により同年六月一九日頃には治癒したことが認められる。

なお、〔証拠略〕によれば、昭和四四年七月一一日から同年八月二日にかけて鼻出血があつたこと、更に又、昭和四五年一月と同年七月に鼻出血を生じたことが認められるが、いずれの鼻出血も、同証言によれば、本件事故と関係ないものと認められる。

嗅覚減退、漫性中耳炎(左)の主張の点についても、〔証拠略〕によれば、嗅覚の減退は一時的なものと推認せられ、又、中耳炎も前記鼻出血同様治癒したものと推認せられるところであつて、他に右推認を覆すに足る証拠は存しない。

なお、造鼻手術の必要について、右主張に添う原告信彦の法定代理人田島重美の本人尋問の結果は〔証拠略〕に照らし採用できず、他に右必要性を認めるに足る証拠は存しない。

(原告ミチヲ)

原告ミチヲは前記認定の如く頭部打撲挫創、左下肢打撲傷の傷害を受けたのであるが、〔証拠略〕によれば昭和四三年八月二一日頃頑固な頭痛と左下肢疼痛を後遺症として残しつつも右各傷害は治癒したことが認められる。

脳波異常の点は〔証拠略〕によりこれを認めることが出来るが、その異常脳波が頭部のどの箇所に存するのか、その異常の程度、左右差はあるのか否か等の詳細は不明であつて、結局、本件事故に帰因するかどうかについての証明は不充分である。

両眼角膜混濁の点は、〔証拠略〕によれば原告ミチヲは本件事故前である昭和三九年二月頃にも老人性白内障(水晶体の混濁)及び角膜混濁があり視力は右〇・二、左〇・一であつたところ、事故後である昭和四三年二月一五日の視力は右〇・三、左〇・〇五であることが認められるので、本件事故により左眼の角膜混濁の度合が増大し、その為左眼の視力が〇・一から〇・〇五に低下したものと推認される。右眼の角膜混濁(全部若しくは一部)が本件事故に帰因するとの証拠は存しない。

そこで次に、原告らの具体的損害額の点は暫く置き、被告ら主張の示談契約の成否並びにその範囲につき判断する。

昭和四三年七月一日原告らと被告らとの間に於て本件事故に関し、(一)被告らは原告らに対し治療費、休業補償費、慰藉料として八八万円支払う。(二)今後如何なる事情が発生しても、双方とも異議の申立てをしない旨の示談契約が成立したこと、右示談金が支払ずみであることは当事者間に争いない。

(一)  然しながら、原告らは右示談契約には後遺症による損害は含まれない旨主張するのでこの点につき審究する。

そもそも、示談(契約)とは、当事者間で損害賠償責任の有無、その金額、支払方法などについて自主的に話合で解決し、事件を完結する合意であつて、主として将来争われるであろう損害額についての紛争を避ける為になされることが多いものである。従つて、紛争の全面的な完結の為に、その示談の時点に於て予想し、又は予想できた範囲内の損害は、後遺症に関するものをも含むのが通常であつて、さればこそ、一般的に示談書には「被害者は加害者に対する爾余の請求権を放棄し、今後本件事故に関して一切請求をしない。」等の権利放棄条項が設けられる示談契約の実態が理解され得るのである。

これを本件について見るに、本件示談契約は〔証拠略〕によつてなされたことは、その書式体裁、内容から肯定されるところであるが、右示談書にも「今後いかなる事情が発生いたしましても、双方とも異議の申し立てをしないことを確約します。」との権利放棄条項があり、又、〔証拠略〕によれば、原告ら三名の本件示談契約締結を原告らの訴訟代理人である弁護士於保睦に委任するに際し後遺症の点を留保する等、代理権の範囲を限定することなく全面的な示談契約をなし得る権限を附与したこと、又、その際、右田島重美が原告らの当時の状況を詳しく於保弁護士に報告してあること(従つて、代理人として充分原告らの病状を認識理解していたと推認される。)が認められるので、以上の事実を綜合すれば、結局本件示談契約も前記一般的示談契約とその効力を一にするもので、原告ら代理人は、異議放棄条項が単なる例文でなく、これに拘束される意思を有したものというべきである。

なお、〔証拠略〕によれば、原告らと被告らとの示談交渉の過程で原告らは被告ら側に対し、本件事故により原告らの受けた損害に対する賠償請求金額の主張の明細として、〔証拠略〕を示したことが認められ、且つ、右損害明細書の合計金額一〇六万円余と本件示談金額八八万円とがある程度接近しているところから、右損害明細書記載の各損害額が示談金額算出の基礎とされたと推認し得るとしても、それから直ちに、本件示談契約が右損害明細書記載の治療費、休業損害、慰藉料、その他雑費に限定される謂れはない。ちなみに、一般的に示談契約締結に際しては、その示談金額の合意達成の為に、何等かの試算がなされるのが通常であるが、その場合前述の示談契約の本質からして、治療費、休業損害、慰藉料等のその試算の基礎に意味があるのでなく、その結果としての金額の多寡に主たる意味があるのである。

(二)  そこで次に、原告らの後遺症が本件示談契約時に予想し、或は予想できたものかどうかについて判断する。

なお、〔証拠略〕によれば、原告ら自動車損害賠償責任保険給付の請求手続も、その代理人として於保弁護士がこれをしていることが明らかであつて、これに弁論の全趣旨を加味するに、原告らは右示談契約締結の際、言わば後に支払を受けるべき自動車損害賠償責任保険給付の上乗せとして、前記示談金額を定めたものと推認するのを相当とし、その後昭和四四年六月二八日から昭和四五年四月二二日までの間に三回に亘り、後遺症に対する自動車損害賠償責任保険給付として、原告淑子が一〇一万円、同信彦が三一万円、同ミチヲが七八万円の各支払を受けている事実は当事者間に争いのないところなのである。

さてそこで、原告淑子に関しては、前記認定の如く後遺症として角膜上皮剥離及び視力低下が認められるのであるが、〔証拠略〕によれば、右角膜上皮剥離は昭和四三年二月一五日の国立下関病院眼科での初診以来認められていた症状であること、その視力低下も前述の如く標準視力を僅か〇・一下廻るに過ぎない推定低下であり、社会生活上それ程重大な支障を生ずる後遺症とも言えないこと等からして、その損害は本件示談契約当時原告らの予想していた範囲内のものと推認するのが相当であつて、他に右認定を覆すに足る証拠は存しない。

原告信彦に関しては、前記認定の如く左上顎洞・節骨洞骨折が開放性骨折であつた為、昭和四三年二月二九日頃に一度は治癒したものの、昭和四四年四月一四日頃細菌感染による炎症を生じ、その為に鼻出血並びに鼻汁が出るようになつたのであるが、〔証拠略〕によれば、同年六月一九日迄の約二ケ月間に一五回の通院加療(主として消炎剤の投与)を受け右症状は治まり(一般経験則に照らし、比較的軽症であつたと考えられる。)、更に〔証拠略〕によれば右骨折も原告信彦が年令的に成長期にあることからして完全に治癒しているものと認められるものであつて、これを要するに、原告らにおいて本件示談契約当時予想していなかつた又は予想できなかつた後遺症による損害を認めるに足る証拠は存しない。

原告ミチヲに関しては、前記認定の如く頑固な頭痛及び左下肢疼痛、左眼角膜混濁及び視力低下の各後遺症が認められるのであるが、〔証拠略〕によれば右各症状はいずれも本件示談契約当時予想し又は予想できたものと認められ、他に右認定を覆すに足る証拠は存しない。

従つて原告らの(再抗弁等)二(一)ないし(四)の主張が理由のないことは自ら明らかであり、結局原告らの本件損害賠償請求権は示談金の支払によつて消滅したものというべきである。

四  よつて、原告らの本訴請求はその余の点について判断するまでもなく、失当として棄却すべく、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 雑賀飛龍 久保園忍 笠原克美)

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